寂しさも切なさも感じたくないわけではなくて
音楽でこんな喉が締め付けられるくらい切なくなるのおかしいだろって思いながら、ヨルシカの春泥棒を聴いて泣いてる。
こんな綺麗に幸せと、それの終わりを歌われてしまうのが少し嫌だ。
ヨルシカの曲はたまにそうで、だから僕は、を聴いたときもそうだった。
なあ、思い出すな から始まる感情の奔流と足掻いて考え尽くした諦観にぼろぼろにさせられて、当たり前みたいに解決もしないで終わった。現実みたいだと思った。それでも人生が続いていくのがわかってしまう。妥協をしなければならなくて、ただその間に確かに幸せだと思えた一瞬があったのを思い出してしまう。
言葉如きが語れるものか、は、確かに間違いなくそうで、その上で、歌えないことと伝わらないことがイコールじゃなくてよかったと思う。
誰にだって言葉に出来ないことがあるし、わかりあえない部分があって、ただだからって完全に無理解な他人になるわけじゃなくて、むしろ自分にそういう部分があるからこそ、そうかよかった相手もそうだった、君も僕と同じ生きてる人間だったって思うことができるから、孤独を尊重すること自体はあんまり嫌いじゃない。
孤独も終わりも全部さみしい、自分一人にしか理解できない何かがあると思うのもずっとさみしい、けど、相手の孤独とか、人間が本質的に必ずわかりあえないこととか、そういうの全部飲み込んでから触る手もちゃんと温かいままだし、終わってしまった幸せだって確かにそこにあったものだった。妥協だけど、それでも確かに幸せだった。
残りはどれだけかな
どれだけ春に会えるだろう
散るなまだ、あと少し、と思いながら、絶対に終わってしまうことだけを、多分全員が知っている。