随想

31文字に収まりきらないこと

眠れない夜の話

 

夜が怖い日があった。

 

 

 

 

昔からずっと星空が好きで、人通りの少ない街が好きだった。

誰もいない街には、特別な時間が流れているように思えていた。

 

すぐそこに並び立つ家のなかで、みんな変わらず生きているはずなのに、目に見えないだけで、まるでこの世界そのものからいなくなってくれたみたいに感じていた。

 

足音さえ響く静寂が好きだった。寒くなってきて、息が白くなるかどうかを確かめるときみたいに、音を立てて息を吐くそれにさえ余韻が残るみたいに思えた。生きていることを邪魔するものが何もないみたいだった。

 

道すがら、それまで歩いていた道をふっと立ち止まってみても、怪訝な顔をする誰かはどこにもいなかったから、そうやってよく夜空を見ていた。

 

 

 

 

夜が怖くなるのは、目を逸らしたい現実がすぐそこにあるときなのだと思う。

私だけの話ではなくて、これはきっと色んな人に共通する話だ。もちろんそれに限ったことではないけど、要するに特別なことではない。

一人きりで、静かな時間が怖くなるのは、自分の内側に、何か嫌なものを抱えているときが多いように思う。

私も多分に漏れずそうで、私は、ずっと人生を受け入れることが出来なかった。

重たい話ではなくて、ただ、生きて、死ぬということが、ずっと怖くて仕方がなかった。枯れた花をゴミ箱に入れることができなかった。

夜のことは好きだったけど、そういうことを思い出してしまう日がたまにあって、そういう日の夜のことだけはどうしても好きになることが出来ないでいた。

ずっと、生きていくのに支障をきたしてしまっているくらい、生き物が死ぬことに怯えていた。

 

 

 

 

まだ小さな頃、肉親からは神様がいるんだと教えられていて、正しいことをしなさいと教わっていた。正しいこと、良いことをして、結果的にそれで誰かに疎まれたり、傷付けられたりしたとしても、ちゃんと神様は見てくれているから、だから大丈夫なんだと、そう教わって生きていた。

 

実際、そんな優しい神様なんていないことに気付いたのは小学校の高学年のころだったけど、そのとき「ただそうだとしても、仮に人が逆らうことが出来ない存在を指すとするなら、神様はきっと、重力とか、電気とか、世界の法則のことなんだろうな」と思った。

地に足がつくこと、人に殴られたら痛いこと、痛いのは避けようと思うこと。

神様がいるとするのなら、私たちが生きているこの世界の法則そのものが、そう呼ぶにふさわしいんじゃないかと思った。

 

当然のように寄り添われながら、絶対的な力で、神様の認めたこと以外は出来ないようにされていて、そのなかで自由に生きていくしかない。今こうして出来ていることの全てが神様に許されていることで、出来ないことは、そもそも許されていないことなのだと、そう考えるようになった。

 

神様のことは好きだったから、すぐにいないと切り捨てることは出来なくて「神様は思っていたようなものではなかったけど、少なくともそう呼べる存在はこの世界にあるんだ」と、そういうふうに思うようになった。

 

良いことをしてもきっと誰も見てくれていないし、報われるとも限らないけど、それでも、人に親切にしようとしたときにぼんやりと浮かぶ嬉しい気持ちは確かにあって、そういうのがちゃんと感じられるように人間は出来ていて、それは神様がそうしてくれているからで、だから、見てもらってなんかいなくても大丈夫なんだと思った。

 

善も正義もなかったとしても、誰かに優しくしたいと思える自分は確かにいて、人を傷付けたときにはちゃんと胸が痛むんだから、その仕組みがあるだけで充分なんだ、良いことをする意味がなくてもそうしたいと思えるこれがあれば、それでいいんだと思った。


神様は、ちゃんとそういう仕組みを作ってくれていたんだと、そう思うようになった。

 

 

 

それで、もうひとつ気付いたのはそれと殆ど同じくらいの時だった。

ここは生き物が死ねる世界でもあった。

 

 

 

上手に言い表すことは出来ないけど、当時の私はまだ幼くて、ちょっと前まではまだ人格神を信じていたような年齢で、ふっとそれに気付いたとき「君は死んでもいいよ」と言われたように感じてしまったのだと思う。

 

死んだら駄目なら人は死なないように出来ているはずだった。それなのにそうじゃなかった。

 

自分が、人間が神様に愛されていなかったんだとそんなふうな解釈をしてしまった。

 

突拍子もないように思うかもしれないけれど、良いことは神様が見てるよ、いつか巡り巡って返してくれるよと教わっていた身で、その神様に「君は死んでもいいから死ぬんだ」と言われたように感じてしまったことは、文字通り世界が変わるようなことだった。

 

単純な話で、出来ることは神様に許されたことで、出来ないことは神様に許されなかったことだった。

 

僕は死ぬことができて、生き物は死ぬことが出来た。

法則だけが全てだと思った。

 

 

 

 

天国はない。そこには質量がないから。

神様も幽霊もいない。脳や神経が機能していない者は思考をすることができないから。

自分なんてない、自我は現象の連続を定義づけただけのものだから。

良いことも、命にも意味なんてない。それ以前に概念の全ては人工物で、世界に本当にあるものじゃない。本当にあるものは物質と現象だけだ。ただそれをどう解釈していたかということだけだ、心も自我もそうだ。おそらくは時間さえそうだ。死ぬことさえ現象が終わるだけだ。何も残らない。

初めからそもそも存在していない。世界にあったものじゃない。

 

幸せになれない人がいるのは人は幸せになる必要がなかったからだ。

優しい人が惨めな思いをするのはそれでも構わないからだ。

人が人を傷付けられるのは傷付けてもいいからだ。

人が死ぬのは命に尊さなんてないからだ。

善も悪も許された事柄のなかでしか起こり得ない。誰かが悲しむのも、苦しむのも、それが起こるのは、それでいいように出来ているからだ。

 

 

 

ずっと信じていたものたちを、丁寧に殺していくような作業だった。

幼かったせいで歯止めが効かなかった。正しいものがないのはわかったから、せめて本当のことが知りたかった。

世の中には物質と現象しか存在しない。意味も概念も、神様の世界を勝手に解釈した人が見出したものだった。だったらないのと同じだとさえ思った。

優しい言葉の殆どがそうだった。人に優しいものは人が作ったものだった。世界は人のためにあるわけじゃない。文化も道徳も存在しない、生き物はただ生きてるだけだった。

 

自分が人間である前にただの生き物で、どんな幸せも優しさも何者からも望まれていない、そういう事実が耐えきれないくらいに苦しかった。

 

それから、夜が怖くなるようになった。人と話すことをやめたら生き物であることの実感から逃げられなくなるような気がしていた。

人に囲まれた文化から抜け出したとき、人じゃない、ただの生き物になってしまうような気がした。

社会、文化のなかでの道徳や倫理の温かさと、ただの生き物が息をしているだけの冷たさの違いに、目をそらせなくなるような気がした。

 

 

私は人間社会の、文化の、色んなものが好きだ。意味なんてなくても温かい子猫はかわいいし、愛おしいし、自己同一性なんて見出せなくても、私は私を都度定義づけながら生きていくことが出来ている。意味なんてなくても、花を持って墓参りには行きたいと思う。

 

ただ、夜の、静かな部屋のなかで、生きていることを考えてしまうとき、慣れきって、もう乾ききった悲しみから逃れられなくなるときがある。意味がないことに足元のおぼつかない不安を感じることがある。死別した人と二度と会えない事実に耐えきれなくなりそうな時がある。このまま生き続けていくことが怖くなる時がある。

 

夜が、どうしようもなく怖くなる時がある。

 

 

 

最近、ふっと思ったことがあった。そういえば、なんで命なんて言葉が生まれて、聖書とか、天国とかいう概念が出来たんだろう。

なんでサンタさんなんて話があるんだろう。

なんで正義なんてあって、それが報われたりするストーリーがあるんだろう。

初めは何もなかったはずなのに、誰がどうしてそんなものを作ったんだろう。

何もないところからそういう概念を見出したとき、その人は、みんなはどんな気持ちだったんだろう。

 

ちょっとだけ考えて、なんとなくそれらしい想像がついて、少しだけ安心した。

こんなことを考える自分が異常なんじゃないかと疑う時もあったから、そうじゃないと思えたことが少しだけ嬉しかった。

 

 

 

意味がないことに耐えきれなかったのは、あなたたちも同じじゃないですか。